亀山政春のモデルは竹鶴政孝でニッカウヰスキー創業者で史実とは?

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NHK総合で2025年12月から再放送される玉山鉄二さんとシャーロット・ケイト・フォックスさん主演のNHK朝ドラ「マッサン」の主人公・亀山政春(かめやままさはる)ですが、モデルは竹鶴政孝さんでニッカウヰスキー創業者で!

今回は日本のウイスキーの父と呼ばれた亀山政春のモデル・実在の竹鶴政孝さんの生涯について史実をご紹介します。

目次

朝ドラ「マッサン」の主人公は亀山政春!

NHK連続テレビ小説「マッサン」は、2014年9月29日から2015年3月28日まで放送された、第91作目の朝ドラ。

全150話放送されました。

国産ウイスキー誕生を夢見る夫と、外国人の妻の波乱の生涯を描いた作品です。

主演は玉山鉄二さんと、妻役のシャーロット・ケイト・フォックスさん。

外国人がヒロインとなるのは、この作品が初めてでした。

ほかには木南晴夏さん、泉澤祐希さん、泉ピン子さん、前田吟さん、堤真一さん、小池栄子さん、風間杜夫さんなどがご出演されました。

脚本家は朝ドラ「ちむどんどん」や映画「フラガール」などの羽原大介さん。

タイトルの「マッサン」とは、竹鶴政孝さんの妻、リタさんが政孝さんを「マッサン」と呼んでいたことにちなんでいます。

あらすじ

単身スコットランドに渡り、ウイスキー醸造技術を学ぶ政春(玉山鉄二)は、エリー(シャーロット・ケイト・フォックス)と出会い恋に落ちる。国産初のウイスキー誕生を夢見るマッサンと、母国を離れ初めて日本にやってきたエリーには、次々と試練が待ち受けていた。
激動の時代を夫婦の絆でまっすぐに生きるマッサンとエリーの愛と冒険の物語。

引用元 公式サイト

スコットランドへ単身渡航し、本場のウイスキー製造を学び始めた政春(玉山鉄二)。そこで彼は、異国からの留学生である**エリー(シャーロット・ケイト・フォックス)**と出会い、恋に落ちます。

日本で初めて本格的なウイスキーを造るという大きな夢を抱える政春。そして、愛する人を追って初めて日本の地を踏んだエリー。文化も言葉も違う二人に待ち受けていたのは、数々の困難と変わりゆく時代の波でした。

そんな中でも、ぶつかり合い、支え合いながら歩んでいく二人。夫婦の絆と信念を胸に、夢に挑み続ける彼らの姿を描いた、愛と希望に満ちたヒューマンドラマです。

主人公は亀山政春!どんな人物?

亀山政春(マッサン)

広島・竹原で代々造り酒屋・亀山酒造を営む亀山家の次男。醸造学を学ぶため大阪に出た際、ウイスキーに魅せられる。大阪の洋酒製造会社・住吉酒造に就職し、ウイスキー醸造技術を学びにスコットランドへ単身渡り、エリーと出会う。

引用元 公式サイト

主人公は「マッサン」こと亀山政春。

以下の文章を被らないように工夫してリライトして。広島・竹原で代々造り酒屋・亀山酒造を営む亀山家の次男。醸造学を学ぶため大阪に出た際、ウイスキーに魅せられる。大阪の洋酒製造会社・住吉酒造に就職し、ウイスキー醸造技術を学びにスコットランドへ単身渡り、エリーと出会います。

物語は、スコットランドからエリーを連れて実家に戻るところからスタートします。

再放送にあたって、玉山鉄二さんが以下のようにコメントされています。

「マッサン」が再放送されます!
あの時のことを振り返ると、私の人生において激動の1年でした。
11年経った今でも、街で「マッサン!」と声をかけて頂けたり。
その度に素晴らしい作品に巡り合えたと実感しています。
私の身体の半分はマッサンなのかもしれません(笑)
シャーロットと描いた、笑い、泣き、苦しみ、苛立ち、そんな夫婦愛を
楽しんで頂けたら幸いです。
私とシャーロットの夫婦を支えてくださった、共演者の皆様、スタッフの皆様、
マッサンファンの皆様、マッサン夫婦に大きな愛をくださり
本当にありがとうございました。
私の一生の宝物です。
是非是非、ご覧になってください。

引用元 公式サイト

放送予定

放送開始は2025年12月22日(月)、NHK総合にてスタート予定です。

放送は毎週月曜から金曜の平日、午後12時30分~12時45分までの15分枠で展開され、全150話で構成されています。

また、新サービス「NHK ONE(旧・NHKプラス)」を通じて、見逃し視聴や同時配信も可能となっています。テレビだけでなく、スマートフォンやPCからも気軽に楽しめます。

亀山政春のモデルは竹鶴政孝!生い立ちからリラとの出会い・国際結婚まで!

生い立ち

竹鶴政孝さんは1894年、広島県竹原町(現竹原市)で、酒造業・製塩業を営む竹鶴敬次郎さんの三男として生まれました。

竹鶴家は三大塩田地主のひとつであり、1733年からは酒造業も手掛けます。

父親を含めた広島の蔵元たちは、酒造りの改良に挑み広島酒を完成。

1907年「第1回清酒品評会」で優等1位、2位を広島酒が独占しました。

父親の酒造りはとても厳しく、政孝さんもその影響を強く受けたといいます。

後年政孝さんは「酒づくりのきびしさは、父を通して私の血や肉になった」と語られたそうです。

竹鶴政孝さんの幼少期は好奇心旺盛であり、かなりの暴れん坊だったとか(笑)

酒蔵を遊び場とし、日本酒づくりの現場で成長します。

中学校に進学したとき、通学に時間がかかったので3年生で寮生活を始めました。

学校生活では寮長や柔道部の主将を務めていたそうです。

酒造りを学び始める

竹鶴政孝さんは現在の大阪大学工学部にあたる、大阪高等工業学校に進学。

そして、醸造科で酒造りを学びます。

三男だった政孝さんでしたが、2人の兄が家業の酒造りを敬遠したためでもありました。

1916年、卒業を目前に控えた竹鶴政孝は、当時からすでに洋酒への関心を強めていました。

洋酒業界への道を模索する中で、高校時代の先輩・岩井喜一郎氏を頼りに扉を叩いたのが、当時名を馳せていた摂津酒造。政孝は卒業を待たずにこの酒造会社への入社を果たし、念願だった洋酒製造の部署に配属されることとなります。

面接の場で応対した社長は、政孝の真面目で誠実な人柄に強く心を打たれ、即決での採用を決めたとも伝えられています。

その後、持ち前の勤勉さと才能が評価され、政孝は早くも主任技師という重責を任されるようになります。

同年の夏、全国でワイン瓶の破裂事故が相次ぐ中、政孝が手がけた赤玉ポートワインだけは、1本も割れることがなかったといいます。徹底した衛生管理と殺菌処理が、その品質を支えていたのです。

この功績により、彼の技術者としての信頼と評価は一気に高まりました。

また、1916年12月には徴兵検査も受けています。身体能力には自信があった政孝でしたが、最終的に軍への入隊は免れたとのことです。

それはこんな理由です。

アルコール製造は火薬製造に必要な技術であるので入隊させずに今後も製造に従事させたほうが軍需産業を活性化させる

政孝さんは摂津酒造での勤務を1年間延長させ、摂津酒造は1918年に純国産ウイスキーの製造を計画していました。

日本でのウイスキーの発展

ウイスキーが日本に初めてもたらされたのは、1853年のペリー来航時のこと。日本の開国とともに洋酒文化も姿を現しました。

その後、1871年には横浜の英国商館を通じて、外国人居留者向けに本格的な輸入が始まります。

当時、日本国内では関税が非常に安く抑えられていたことから、輸入アルコールを使った“国産洋酒”の製造が急増。しかし実態は、中性スピリッツに甘味料や香料を加えただけの模造品(イミテーション洋酒)が主流でした。

やがて、輸入アルコールにかかる関税が引き上げられると、各地の酒造業者の間で「本物の洋酒を自前でつくるべきだ」という機運が高まり、自社蒸留への取り組みが始まります。

この流れにいち早く着目したのが、摂津酒造です。

当時、同社の阿部社長は、スコッチウイスキーの流通が国内でも広がり始めるのを見て、「もはや模造酒では勝てない」と強く感じていました。

そこで白羽の矢が立ったのが、社内でも技術力に定評のあった竹鶴政孝でした。

本物のスコッチを学ばせるため、阿部社長は政孝にスコットランドへの単独派遣を命じます。この決断が、日本のウイスキー史に大きな転機をもたらすことになるのです。

留学と竹鶴ノート

純国産のウイスキー造りを始めるため、スコットランドにやって来た竹鶴政孝さん。

グラスゴー大学とロイヤル工科大学(現・ストラスクライド大学)で聴講生となり、有機化学と応用化学を学びました。

机上の知識習得だけでは飽き足らなかった政孝さん。

何のツテもないまま蒸留所の門を叩き、ロングモーン蒸留所が政孝さんの熱意を受け入れてくれました。

ここでモルトウイスキー製造の一連の作業を実践。身をもってウイスキー造りを学びました。

その後グレーンウイスキー工場にて、製造見学と体験をされます。

ここではメモを取ることができなかったので、紙片と短い鉛筆をポケットに入れ、トイレで殴り書きをされたとか。

帰宅後に記憶をたどり、ノートにまとめていました。

それが「竹鶴ノート」と呼ばれるもの。

とても丁寧に書かれています。几帳面な性格だったのでしょうね。

かつての英国首相が、来日の際こんなスピーチをされたそうです。

頭の良い日本の青年が、1本の万年筆とノートで我が国のウイスキーづくりの秘密を盗んでいった

決して嫌味ではなく、ユーモアと親愛の情を込めたスピーチです。

2冊ある竹鶴ノートから日本のウイスキーづくりは始まり、発展していくことになります。

リタとの出会いと国際結婚そして帰国

1919年の初夏、竹鶴政孝は大学で知り合った女子学生から「弟に柔道を教えてほしい」という頼みを受けます。この縁が、のちに人生の伴侶となる女性――リタ(本名:ジェシー・ロバータ・カウン)との出会いに繋がりました。

リタはその女子学生の姉で、文学やクラシック音楽を愛する教養深い女性。政孝とリタは共通の趣味を通して自然に心を通わせていきます。やがて、周囲の反対の声を押し切り、1920年1月に結婚。時代も国境も越えた、静かで芯の強い愛が実を結びました。

政孝は後に「最初から彼女には強く印象を受けた」と語り、リタもまた「勉強を孤独に続ける彼の姿に惹かれ、同情から気持ちが動いていった」と述懐しています。

とはいえ、この国際結婚は決して順風満帆ではありませんでした。リタの家族の多くは政孝との結婚に難色を示し、挙式は教会で、証人2名と登記官だけが立ち会う静かな式となりました。

一方、日本の竹鶴家もまた、この結婚に強く反対。政孝は最終的に、自身の雇い主である摂津酒造の阿部社長に判断を委ねます。阿部社長はヨーロッパまで足を運び、リタの人柄に深く感銘を受け、結婚を承認。ふたりのためにグラスゴーのホテルで祝宴を開いたといいます。

その後、政孝はスコットランドに留まる覚悟もしていましたが、リタの後押しもあり、1920年11月に日本へ帰国。結婚に反対していた竹鶴家も最終的に妥協し、政孝が分家することで折り合いがつきました。

新婚のふたりは、大阪の帝塚山に新居を構え、摂津酒造での新たな挑戦に取りかかります。

政孝は現地で得た知識と経験をまとめた「竹鶴ノート」を基に、本格的な国産ウイスキー製造を目指して動き出します。しかし、折悪く第一次世界大戦後の不況が日本を襲い、資金面の問題から計画は中断を余儀なくされます。

その後、1922年に政孝は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学校で化学教師として勤務することに。リタもまた、英語を教える仕事に就き、夫婦で新たな生活を支え合っていきました。

 

竹鶴政孝がニッカウヰスキー創業者になるまで!

サントリーへ

1923年、現在のサントリーである寿屋に迎い入れられた竹鶴政孝さん。

寿屋の社長だった鳥井信治郎さんは、竹鶴政孝さんがスコットランドに向かう船を見送ったひとり。

寿屋はこのとき、ウイスキー蒸留所建設を進めていて、適任者を求めスコットランドに問い合わせたところ、竹鶴政孝さんがいるはずだ、と言われたそうです。

鳥井社長はスコットランドから呼び寄せた技師に払う予定だった、年俸4千円という破格の給料で竹鶴政孝さんを採用しました。

政孝さんはスコットランドに似た風土の北海道での建設を提案しましたが、鳥井社長の希望で大阪の山崎に決まります。

消費地からの輸送コストの問題や、工場見学をさせたい、という鳥井社長の思いがあったのです。

竹鶴政孝さんは諸条件から三島郡島本村大字山崎を選び、製造設備を設計。

1924年に山崎蒸留所が竣工され、竹鶴政孝さんが初代所長に任命されました。

1929年にようやく最初のウイスキー、サントリー白札が発売しましたが、イミテーションに馴染んでいた日本人には、あまり受け入れられません。

販売は低迷し、買収したビール工場の工場長も兼務となりましたが、何の相談もなくビール工場の売却を発表。

寿屋に不信感を抱いた竹鶴政孝さんは、最初の約束だった10年が経過したこともあり、寿屋を退社しました。

ニッカウヰスキーの誕生

竹鶴政孝さんは北海道の余市町でウイスキー製造を決意。

資本を集め大日本果汁株式会社を設立し、自身は代表取締役専務に就任されました。

筆頭株主は加賀証券社長。奥様がリタの英語の生徒だったのです。

ウイスキー完成までは長い年月がかかるので、それまでは余市特産のリンゴジュースを作ることに。

ですがリンゴジュースが売れず苦難の時代が続きました。

純粋果樹だったので価格も高く、時間が経つと混濁するという難点があったのです。

それから4年後の1940年6月、ついにウイスキーが完成。

「大日本果汁」に「日」「果」から『ニッカウヰスキー』と名付けられました。

ボトルは線が入ったカットグラスを採用し、ラベルや包装などにも粋を極めたといいます。

エンブレルには政孝さんの発案により、洋と和の魂がこめられました。

完成したウイスキーは原酒が若いので、ブレンドには苦心があったそうですが、販売は好調でした。

ですが直後にウイスキーは統制品となり、工場は海軍監督工場に。

終戦まで配給用のウイスキーを製造することになりました。

三級ウイスキー

終戦後にまたイミテーションウイスキーの時代が訪れます。

税金を払えば原酒0%でもウイスキーとして販売できました。

ですが竹鶴政孝さんがそんなことをするわけもなく、一級ウイスキーのみを作り続けます。

ですがついに経営がひっ迫し、泣く泣く三級ウイスキー「スペシャルブレンドウイスキー(ポケットびん)」を発売。

せめてもの抵抗として、合成色素や香料は一切無添加にしました。

三級ウイスキー発売に当たり、従業員を集め竹鶴政孝さんはこう宣言されています。

諸君、ニッカウヰスキーの誇りを忘れず、この事情をよくかみしめてほしい

リタが亡くなる!悲しみを乗り越え

晩年のリタは穏やかで幸せな日々を過ごしていましたが、もともと丈夫ではなかったこともあり、体調を崩すことが多くなりました。

1961年1月、静かに最期を迎えます。64歳でした。

2日間自室に閉じこもり、火葬場にもいかなかったという竹鶴政孝さん。

本物のウイスキーづくりへの情熱が、政孝さんを駆り立てます。

おふたりに子どもはいなかったので、甥っ子の威さんを養子に迎えていて、威さんと一緒にスーパーニッカを生み出しました。

1962年10月に発売されたスーパーニッカは、当時の最高級であり、リタへ捧げる鎮魂のウイスキーとなりました。

竹鶴政孝さんには別々の蒸留所で個性の違うモルト原酒を生み出し、グレーンウイスキーを生産するという夢があります。

1963年に「カフェ式連続式蒸溜機」を導入し、カフェグレーンを製造しました。

1967年に宮城県に宮城峡蒸溜所を建設し、宮城峡モルトを製造します。

ハイランドタイプの余市モルト、ローランドタイプの宮城峡モルト、そしてカフェグレーン。

それらをブレンドして、日本になかったウイスキーを生み出し、夢を叶えました。

竹鶴政孝さんは1979年、肺炎により入院していた 順天堂大学医学部附属順天堂医院にて、85歳でお亡くなりに。

北海道余市町にリタとともに埋葬されています。

まとめ

ウイスキーづくりに生涯をかけた竹鶴政孝さんをモデルにした、NHK連続テレビ小説「マッサン」がNHK総合にて再放送されます。

ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもある竹鶴政孝さんは「日本のウイスキーの父」と呼ばれました。

そんな竹鶴政孝さんをモデルにした亀山政春役を玉山鉄二さん。

妻のリタをモデルにした亀山エリー役をシャーロット・ケイト・フォックスさんが演じました。

朝ドラ「マッサン」は2025年12月22日からの再放送です。お楽しみに!

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